シカゴ日記(2):ヒップホップのローカライズ

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アメリカにいると偉そうに人種問題をほざかずにはいられないのはなんなんだろうか。


この一週間では、アメリカにおける人種問題と密接に連関したヒップホップみたいなものを改めて垣間見た。白人のルームメイトたちと話していて「日本でヒップホップミュージックを作ってるんだよね」というと、最初は必ず乗ってきて「俺もヒップホップミュージックは大好きだぜ!」つって最近ハマっているラッパーについて色々と語ってくれる。
しかし音楽として楽しみ消費することはできても、その世界観に過剰に共感しようとした瞬間に、音楽としてのみのブラックカルチャーの表層すらも実際には歴史のダイナミクスの上に成り立つものであるという現実により途端にポリティカルコレクトネス(PC)の壁に断絶される白人の微妙な立ち位置というか、その「立ち入ってはならない境界線」みたいなものがもう本当にはっきりと見える。その一線を超えた話を振ると途端にみんな口ごもる。何も知らないフリをしてずけずけと踏み込んだ俺が一番悪い。

アメリカから外に出ると、ヨーロッパでもアジアでもいろんな人間(=いろんな人種)がヒップホップをやっているけど、それは単なる「ダイナミクスを無視した結果としての今のヒップホップカルチャーを演じている」というよりは、むしろヒップホップという世界観(=手法)を自身の生きる現実に流用しているんだなという理解に至った。つまり単にブラックカルチャーを継承しているというよりは、ブラックカルチャーにおける問題意識とか自己表現の方法とか、そういうものを自身の生活環境で遭遇する問題(貧困、抑圧 etc)に適用し再解釈しているということであって、それは紛れもないサンプリングなんだと思う。そう考えると、ヒップホップの根底にある問題意識みたいなものを必ずしも共有せずとも、それを理解し解釈することで自身の弁に活かすことは許されることなのかもしれない。俺は、すぐ「〜ってヒップホップだよね」って言うやつが基本的に嫌いなんだけど、まあそれはそれで正しいのかもしれないということです。

以前こういった人種に関する議論の中で、行きすぎたポリコレに絡みとられた知識層の白人が(逆に)抱きうるapologyみたいなもの(というと言い過ぎなのかもしれなくて、実際には単なる”動きづらさ”にすぎないのかもしれない)を、白人であるというだけで背負わされうる「原罪」と呼んでいる記事を見て少し納得感があった。

該当の記事は探したら意外と簡単に掘り当てられたので貼る。

ハーバードを卒業した白人男性は、「僕らは自分の意見を自由に表明することができない」という。ポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた現在のアメリカでは、白人男性であることはむしろ「原罪」なのだ。努力して好成績を修めても、「優遇されてるからでしょ」と批判されることもあるという。下手に反論すれば「差別主義者」のレッテルを貼られてしまう。
トランプ旋風でわかった“インテリの苦悩” ハーバードの学生がトランプ支持を表明できない事情


まあ”色”の問題ではないにせよ同じ構造の問題は日本にもあるけどね。
何より、社会的に弱い立場の人間がその立場を逆に利用すること自体は、俺が病気を理由にして繰り広げる話とかもだいたいそれだからね。

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