人生の境遇は環境と偶然のもとに

Share Button

2017年が終わります。2017年は多様性とライフスタイル(文化、教育)と技術についてひたすら考えた年でした。20歳にして心臓病で死んでたかもしれない自分が来年度から働くんだと思うと「人生ってわからんもんだな」と思うばかりです。
そんな意味でも我々の要素のほとんどは偶然でできあがる。家庭環境、受けられる教育、社会資本、IT技術、医療技術、時代背景、それに常識とか。

生活保護を受けている人の大半は本当に困っていてその制度に助けられていると俺は信じているし、不正受給なんて本当にごく一部だと思う。仮に生活保護もらってアル中でパチ屋に通うだけの人がいるとして、もちろんそれは何らかの外因でそこから抜け出せなくなってしまった人とか、まあいろんな境遇の人がいるとは思う。本当に仮の仮に、一部「働けるはずなのにそこから抜け出す気のない人」がいたとしても、それは働く楽しみとか、自己実現の喜びとか、そういうものを学ぶ機会がそもそも与えられなかった可能性もある。つまりどんなに才能のある人でも環境次第では簡単に同じ境遇になりうるし、どんな才能もそれを活かす舞台が正しく与えられなければ何ひとつとして力を発揮することはできない。

PunpeeもHEROのリリックで言っている。

あの芸術家達もあの戦争に行ってたら死んでたかも
あの戦争の犠牲者の中にも未来の芸術家が何人居たろう?
(Punpee, “Hero” from “Modern Times“)


人生の内容なんて環境とタイミングだけでいとも簡単に変わってしまう。だからのし上がって来るやつがいたり、逆にペントハウスから一瞬で転げ落ちて来るやつがいたりするし、自分より悪い境遇の人を笑う暇があったら稼いで税金を納めなければならないのだ。いつかそれに自分が助けられる日も来るかもしれないんだから。俺は高額医療費負担制度でこの世にとどまってからしばらくは社会への恩返しをしようと空回りする節があったので、気張り過ぎず自然体で頑張ります。

もっといえば、生活保護もらって適当に生きる道があたかも「ダメな人生のモデルケース」みたいな謂れを受けることも多いけど、ひろゆきの提唱する形のベーシックインカム(橋下徹氏が感心したひろゆき氏のベーシックインカム予算案 – ライブドアニュース)が実現されれば、30年後にはそんな生活だって生き方の一つとして当たり前になる可能性すらある。
常識なんて変わってしまうもんだとわかっていても、200年前の東京が教科書に出てくるあの江戸だったなんて俺には信じられないけどね。

橋下徹氏が感心したひろゆき氏のベーシックインカム予算案 – ライブドアニュース



「パソコンできてよかったね」

俺は最近しょっちゅう「パソコンできてよかったね」なんていろんな人に言われる。パソコンできてよかったのは疑いようもない事実だけど、それは5歳ぐらいからパソコンの中身に触れて学べる機会を親から与えられたが故に発芽できただけの話で、トライアンドエラーの経験量が多いに過ぎない。真に重要なのは「きっかけ」を与えられるタイミングであって、もし20歳までパソコンに自由に触れられる機会を与えられなかったらまあ今のようにはなれていなかった。それは才能というより、ひとえに俺の興味に従ってパソコンを買い与えてくれた親のおかけなわけだ。

もし家がひたすら苦手な運動をやらされるようなスパルタ家庭でパソコンより運動部での部活動を強要するような家だったら耐えられずに自殺していたかもしれないし、もっといえば生まれるのが10年早ければ医療技術がギリギリ追いつかず今のように自由な生活はできていなかった。戦争中だったらこんなふうに自由に学ぶ余裕はなかっただろうし、食べるものがなければ体を動かしてでも働かざるを得なかった。
もちろん人生は最終的には自分が頑張れるかどうかにかかっているけど、その頑張るための土俵自体がそもそも外生的に与えられていて、だからこそ安易に自分の力だけで成り上がってきたようなことは思ってはいけないということが(やっと)わかってきた。先日ちょうど友人と「大学院に入ってやっと自我が形成されてきた」という話をしていたけど、俺もやっと人間になってきたのかもしれない。

普段ならここでブログ記事は終わりなんですが、今回はもう少し書く。

この話の延長として主張したいのが「死刑は廃止したほうがいい」ということです。

1週間前に死刑が執行された。国家が人間を殺すというのは、まあ、なんというか、大変なことだと思う。「自分が机の上で目の前の紙切れに捺印するとどこかの他人が命を落とす」というのは普通に考えて「すごい関数」だし、どういう感情になるんだろうといつも考えている。

そもそも公共の福祉の一環として「大人数の国民に不利益を被る存在」を収容することで社会から隔離して秩序を保つのが刑務所なわけじゃん。刑務所に隔離するだけでもそもそも多数決の都合であるひとつの人権を制限してるんだよね。その運営コストを大多数側の負担で維持するのは当然としても、さらに国家主導でその人の命まで奪うというのは文明国家としてさすがにどうなんだろう。罪人だから罪を償うのは当たり前なんだけど、それでも少し納得しがたい部分がある。

もちろん殺人は許されざることなんだけど、「多様な社会」においてはあらゆる多様な感性を承認することを生存戦略としていると考えれば、死刑はやりすぎなんじゃないかとも思う。認めたくないかもしれないけど、「社会に存在するあらゆる人間が一歩間違えれば同じ境遇になっていたかもしれない」ということや、もっといえば「死刑にしても亡くなった方が戻ってこられるわけではない」ということを考えれば、究極的には何をしても遺族(や社会にとって)の憂さ晴らしにしかならないっていうのが悲しいけど現実なんだよね。多様な存在を許容した結果として社会に不利益を及ぼす存在が現れたら、社会が責任を持って隔離しつつ存在はさせてあげる、というのもひとつの責務なんじゃないのかな。つまりは終身刑でいいんじゃないかな。というのが俺の考えです。

「お前は自分の家族を殺されたりしてないからそんなことが言えるんだ。殺されればコロっと考えを変えて『加害者には絶対に死刑になってほしい』と心から願うはずだ」とか思われるかもしれないけど、知り合いを殺されたりすると客観的な判断ができないから今それを書いているんですよ。

ということで2018年も頑張って生きていきたいと思います。しっかり納税するためにしっかり稼いで頑張ります。2017年はろくに貯金もないのに月収の1割を震災に寄付したりとか結構頑張ったのでもう許してください。あと浅草橋あたりでいい物件があったら教えてください。



style="display:block; text-align:center;"
data-ad-layout="in-article"
data-ad-format="fluid"
data-ad-client="ca-pub-3546003055292762"
data-ad-slot="5749192034">

Share Button

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.