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耳管開放症, SAS, 統計解析, 人工知能, プログラミングそれに思考

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実は性別など存在しないのではないかと勘ぐった話

   

いつになくタイトルからかっ飛ばしてます。昨日夜道を歩いてたら急に温泉のように文章が湧き出てきました。
今回は箇条書きでささっと論理展開していきますが、ミソになるのは「我々は所与の外面的な性を盲信し、それに沿って性格を選択して”社会的に正しく”振る舞い、しかもそれに対してなんの疑いも持つことができない」という点です。

内面としての性は存在するか

1 まず我々が内面的な性だと認識しているものは「社会文化的に組み上げられてきた既存のジェンダーイメージ」+「それに倣って選択的に設定される自身の性格」に分解されてしまうのではないか

2 つまり性別なんてものは本質的に存在せず、みんな社会文化的にすでに存在するジェンダーロールに逆説的に性格を規定されているだけなのではないか

3 ここでいう「内面的な性が存在しない」というのは決して「外面的な性がそのまま内面的な性も規定しているから内面が存在しない」とかいう意味ではなく、「我々が内面的な性だと思っているものは所詮頭の中で思い描くジェンダーイメージに沿って演じられるだけの虚構なのではないか」ということ

4 大半の人間は自分に予め与えられた性別に従って「男らしく」「女らしく」振る舞うために自身の性格を最適化していくのではないか

5 数少ない一部の人間だけがそこに疑いを持つことができ、自身の性別を自身の選好に従って選択できているのではないか

6 では「男は猛々しく女はお淑やかに」みたいな、今日まで引き継がれてきたカスみたいなジェンダーイメージはいつ形成されたのだろうか

7 これは完全に勝手な妄想だけど、我々がまだ猿だった時代に、家と狩りという社会的分業が必要になったことから追加的なジェンダーロールが設定され、性格がジェンダーイメージとして大きくふたつの潮流に分化したのではないか

8 逆に言うとそれ以前のジェンダーロールには外面的な性が担う機能としての生殖以外は存在していなかったのではないか

9 それ(=猿の時代から始まったジェンダーロール)が歴史的に引き継がれてきたことで今の社会文化的に見る男女というもののなんとなくの平均的な性格とかイメージというものにつながっているのではないか

10 “ものすごくロールプレイング的に演じられるジェンダーイメージに根ざした内面的性”というものさえ取っ払ってしまっただけで、もはやその残留物に形以上の性は存在しなくなるのではないか

11 もはや世の中は男が稼ぎ女は家というような時代ではなく、海外では家庭で女性の方が稼いでいることも平然とあり、生殖以上のジェンダーロールは撤廃されつつある

12 にもかかわらず日本では妻の方が稼いでいたら負い目を感じるというのはなんなのか

13 幼少期に「あなたは男の子なんだから」と言われて「そもそも俺が男だと誰が決めたのか」と”ちゃんと”疑問に思えた人はどれくらいいるのだろうか

14 つまり自分の外面的な性に懐疑的な態度を取れるというだけで相当にすごいのではないか

15 それくらい、我々の大半は所与の外面的な性を盲信し、いつの間にかそれに沿って性格を選択し、”社会的に正しく”振る舞い、さらにはそれに対してなんの疑いも持つことができない

16 そもそも生き方の多様性が一気に開花した現代において「男性/女性らしさ」なんていうもの自体がナンセンスである

17 逆に言うと今さら「 [男性/女性] [らしく/のように] 振る舞う」とか言ってもそれ自体がある種極めてステレオタイプな「ジェンダーイメージの幻想」を追っているだけに過ぎない

18 つまり現代においてはもはや形以上の性別など存在しない

あとがきとしての自分語り

俺は自分が病気でよかったと思ったことは一瞬たりとも無いが、マルファン症候群のガリガリの身体に男らしさのかけらもないのはある意味でいろんなことを考えるきっかけになっているという点で一応感謝してはいる。
なんか頼まれるたびに「は?めんどくせー」とか言っている辺りとかブログ/メール/SNSの文章を(あえて)だらけた文体で書く辺りに「せめて内面的にぐらいは男っぽく振る舞おう」という馬鹿極まりない意識がにじみ出ていて本当にダサいし、直したいとも一応思ってはいる。
保育園に入園した当時保育士の先生に俺だけが「じゅんちゃん」とちゃん付けで呼ばれていて女の子みたいだなと思ったのが嫌で仕方なかったのを俺は今でも覚えている。その年にはすでに自分という存在を既存のジェンダーイメージに最適化したいと願っていたんだろうし、振り返るとあの頃から馬鹿だったんだなあと思う。

外見として男性である人が女性として生きることや、外見として女性である人が男性として生きることがやっと社会的に許容されてきたが、そもそも全人類が好きなように生き振る舞うことが認められているはずの世界で許容される/されないなどとごちゃごちゃ言っている時点で意味がわからない。
俺はそもそも社会的に認定されること(=結婚)自体に興味がないので「性別の組み合わせによって結婚が許されなかったりすることに対して変革を求める方向への運動」とかにはあまり理解がないのだけど、少なくとも誰と誰が[付き合ってる/結婚する]のを[許す/許さない]だのという議論は中学生で卒業すべきで、人間同士である以上好きな組み合わせで勝手に生きることが許されるべきなんだとは思う。そういう意味で、過去の歴史を振り返ると同性愛が厳しく罰せられたりしていて、我々はどこまで馬鹿なんだろうと思ったりもする。


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